読書録

面白かった本の要約・感想文を記します

穂村弘『短歌の友人』 要約

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)


<方針>

短歌を読み解く鍵は、根底に流れる「生のかけがえのなさ・一回性」であることを基本に置き、ここ数十年の短歌の変化、それを象徴的に示す事案に触れつつ、短歌の歴史と未来について書くエッセイ集。


<戦後と短歌>

前衛短歌において、「一人称・自意識の拡張」「韻律の革新」「喩法の導入」「アイロニー」などのレトリックは、もともと戦争及びその歪みを抱え込んだ戦後的な共同幻想(家族や国家、異性愛など)を打つために選ばれた武器であった。だが時間の経過とともに敵の姿は見失われ、彼らの掴んだ武器は道具へ、そして玩具へと変わっていった。ニューウェイブと言われる短歌は、この玩具としての言葉の使用を進める動きでもある。



<コミュニケーションへの飢餓>

物語や目的が生きていた時代の自己意識を考えるとき、大いなる使命の前には良くも悪くも己の命は小さな物に感じられたのではないか。そのような状況下では、時々の個人の気分などはほとんど問題にならなかっただろう。だが、命の使いどころの見えない現代では事情は大きく異なっている。何かのために使われることもなくなった命は、それ自体が目的化してどこまでも肥大し始めることになる。現実の生活に目を向けても、物語は目的を見失ったときから我々は自らの健康や幸福に過剰なこだわりを持ち始めたのはなかったか。(中略)そのような時代の人間は、自らの命を満たすときどきの気分というものに限りなく敏感になっていく。気分を何よりも大切にしたい贅沢な人間同士が二人きりで世界のバランスをとって行くことは難しい。互いの価値観やニーズのわずかなズレが、強い痛みを伴って意識されてしまうのである。そのような状況下では、今度は二人の関係性自体が目的化してしまうこととなり、その結果、絆というものの価値が高騰する。



<リアルはどこから来るか>

ある短歌作品の冒頭を伏字にして、もとの内容を予想してみる。


◯◯◯◯◯◯◯

おかれたる

水色の

ベンチがあれば

しずかなる夏


解答例に「図書館の本」「コカコーラの缶」などそれらしいものを代入すると、ベンチの上にある図書館の本、コカコーラの缶から夏の情景が浮かんでくる。しかしなんと本来の7文字は「うめぼしのたね」である。


本やコーラの方では、ドラマのセットのように平面的で、いわば何度でも繰り返し可能な世界を描いているのに対し、うめぼしのたねが置かれたベンチは一回きりの情景であり、別次元のリアリティを以って描かれている。ゴミであると同時に生命の源でもある「たね」によって、現にわれわれが生きている世界の感触を伝えているというわけだ。


他にも、5W1Hを省略することで得られるリアリティや、「道端に落ちている、少し端の折れたタオル」「かすかに傾いているくだもの屋の台」などを描くことで、すなわち小さな違和感の強調によって、逆説的に「本当にあったことなのだろう」と思わせるリアリティを得る手法が示される。どれも突き詰めると「生のかけがえのなさ」に収斂する表現である。




あやまりに

行ったわたしを

責めるなよ

ダシャンと閉まる

団地の扉


もうひとつ例を挙げる。ラジオ番組に応募されたこの歌は、魅力のポイントが一点に集中している。それはもちろん「ダシャン」であり、ガシャンと閉まるよりずっと、生のかけかえのなさ・一回性を深く伝える。


ベンチの上に置いてあるのが「うめぼしのたね」であること、団地の扉が「ダシャン」と閉まること。その深さを読者が見逃さないのは、皆が生の一回性を深いレベルで共有しているからだが、詩歌を創作する側に回ったとき、「ダシャン」「うめぼしのたね」という表現の発見は難しい。日常の多くの場面において、私たちはわけのわからないものを持ち込まないように強いられてるわけで、(新聞や新書に斬新なオノマトペやメタファーが満ちていたら大変だ)普通の場面で扉は「ガシャン」と閉まることが望ましい。合理性を追い求め、矛盾や混乱を排除し、通りのいい形態にすることは、最終的には人間全体が「生き延びる」という大きな目的に収束する。すなわち、人間の生存を支える大きな目的意識が、ベンチの上にたしかにあるはずの「うめぼしのたね」を見えなくさせているのだ。



<リアルの変容>

元々の短歌は、リアルを得るもなにも、季節の美しさやふと感じた風流を素朴に詠む「実感の表現」であったわけで、わざわざリアル・モードへの切り替え技巧を要するものではなかったはずだ。


おさなごの

風邪きづかひて

戻り来る

きさらぎの夕べ

未だ明るし

(柴生田稔)


例えばこの歌には、初句から結句まで一貫してリアリズムだが、それはリアリティを持たせようという特別な技巧ではなく、豊かな世界の空気感そのものに支えられている。


門灯は

白くながれて

焼香を

終えたる指の

粉をぬぐえり


しじみ蝶

草の流れに

消えしのち

眠る子供を

家まで運ぶ

(両方とも吉川宏志)


対照的なのはこのような歌で、「焼香を終えた指をぬぐう」「眠る子供を家まで運ぶ」などリアルな描写があるものの、個人技によって作られた現実感である。


また、最近は短歌界隈でアニミズムが流行っているらしい。動物や自然物との交流を歌に盛り込むのだが、著者は普段反アニミズム的な世界に暮らしているので同調しずらいと述べる。著者の感じる反アニミズムを端的に表現すると、寿司屋を回転寿司屋に変えてしまう力のことだと言う。


本物の寿司屋しか知らない人からすれば、回転寿司屋は悪夢的な場所であるはずだ。現代では悪夢的であることがすなわちリアルなのであり、近年のアニミズム傾向は、回転寿司屋的なリアリティに対する反作用なのではないかと指摘する。寿司屋を回転寿司屋に変容させる力のなかに人の荒廃や堕落を読み取ることは容易だが、問題はその裏にリアルな必然性が貼り付いていることであり、アニミズムのように「昔に戻れ」と言う以外のかたちで表現を新たに展開すべきだと結論づける。



<メモ>

・いかにも歌人のエッセイらしく、論理が怪しいなというところが多いが、多くは用語設定や概念の腑分けの雑さから来ていて、指摘自体は鋭いのではないかと思った。要約してるとなおさら話の流れが分かりにくいと部分がありモヤモヤした


・良さそうな歌人をたくさん知れたので入門書によさそう 吉川宏志小島ゆかりをたぶん買う



・都庁はかっこいい建築だけど、内部では修復できないレベルの雨漏りがあるらしい、東京らしい悪夢である