読書録

面白かった本の要約・感想文を記します

上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』 要約

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

 


ホモソーシャルホモフォビアミソジニー

男の値打ちが何で決まる(ことになっている)かというと、男からの評価であり、もし女からの評価を得たければ、地位や名誉、富などをめぐる男の間での覇権ゲームに勝ち抜くことが一番の王道である。女はあとから自動的についてくるーーというのがつい最近までの価値観であった。男が女からの評価を気にするようになったのは、女が自分自身の力で富や権力を獲得できるようになってからのことである。この現象は女の世界では起きず、女の覇権ゲームは女の中だけで完結しない。要は、男から女として認められ、選ばれるのでなければ「女は女になれない」ということである。

男の間にはホモソーシャル(性的な関係を含むホモセクシュアルではない、この二者を分けたのがセジウィックである)な連帯があり、その一員として認められるか否かは昔から男性性を担保するための生命線であった。古代ギリシャでは同性愛において、客体化されること、貫かれること、を別の言い方で”femilize”と言ったが、男性が最も恐れるのはこの性的主体からの転落である。「おかま」という蔑称が男性成員からの排外としてポピュラーなのは象徴的だ。ホモソーシャルな集団は、おかま狩り、すなわちホモフォビアによって維持される(ただしセジウィックホモソーシャルホモセクシュアルは明確に異なるものではなく連続的であるとしている)。そして、主体性の確認として非常に重要なのが女性を性的客体として所有(モノ)にすることである。「女房ひとり言うこと聞かせられないで、何が男か」という判断基準は今でも生きており、このような女性の客体化、他者化、物格化、ひいては女性蔑視をミソジニーという。


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<性と社会構造の関係>

ミソジニーが生み出したもののひとつに「性の二重基準化」がある。近代の黎明期である十九世紀ヴィクトリア朝では、一夫一妻制と売春宿が制度として確立した時期であり、建前で相互の貞操を謳いながらも、男はいわばルール違反で売春宿に通うのが普通であった。当時は、男は色好みでもよいが妻は貞淑で性的に無垢であるべし、という価値観が通っており、(今とそれほどは変わっていない)このように男女の性道徳に差があることを「性の二重基準化」と呼ぶ。この頃、男から見れば、生殖の妻/快楽の娼婦、のような二分化を女性に当てはめることになった。特定の女性に真剣なのであれば、性の対象として見てはならない、なぜなら相手をまじめに扱っていないことになるから、という奇妙なジレンマは今も生き延びているし、多くの言語圏で”son of a bitch”、”bastard”のような母の貞操を非難することが男に対する侮辱であることからも見て取れる価値観である。
近代の婚姻法以前では、性関係は必然ではなかった。子供が産まれなくとも正妻の地位は脅かされないし、養子縁組をすればよいだけ、あるいは側妾に産んでもらえればよい。母が誰であろうと、強固な家長制のもとで父の傘下に入れられる。婚姻とは何よりもまず子供の帰属を決める親族関係のルールであった。夫婦間に「(子作りを含まない)セックスの義務」が生じたのは近代婚姻法以降なのだ。正確にいうと、「セックスに応じない」ことが正当な離婚理由になるという法の運用上の前例から推定されるのだが、フーコーが「権力の官能化」と呼ぶこの現象を、著者は「夫婦関係(権力)のエロス化」と言い換えて論を進める。それまでの夫婦間の性の手ほどきといえば単に生殖を目的としたお堅いものであったのが、夫婦間の官能こそ快楽の最たるものだとする言説が目立ち始める。ヴィクトリア朝の初期から時代が進み、昼は貞淑に・夜は娼婦のように、があるべき姿として認知され始めたのである。そしてこの変革は、ヨーロッパのブルジョワ階級で起こったものであり、セクシュアリティは階級の産物であることをフーコーは指摘する。それこそ、恋の相手を「遊女さま」、妻や母たる女を「地女」と呼んで区別していた江戸時代の日本からすれば新奇な考え方であったろうし、夫婦間のエロスが特権化されたのは歴史上限られた時代と文化圏においてのみである。セクシュアリティは、親密さや愛着から暴力まで、幅広くあらゆるものと結びつくが、それはセクシュアリティの本質が薄いということである。つまり「性は親密さの表現である(べきだ)」のような言説は規範的な命題に過ぎず、私たちが知るのはある特定の歴史的文脈において、性が特定の何と特権的に結びつきやすいか、という蓋然性のみだ(権力のエロス化もこれの一例)。

現皇太子がプロポーズしたときの台詞が「一生全力でお守りします」だったことは有名だが、「守る」とは所有の言い換えで、囲いに閉じ込めて支配することであり、男にとって愛が所有や支配に偏ることを示す端的な例であると指摘する。その裏側で、女にとっての愛が従属や被所有であることも多い(「あなたについてゆきます」など。どちらも「権力のエロス化」を内面化している)。愛の表現として、好きになった男の家へやってきて掃除や料理をするのが珍しくないのも、主婦が上流階級以外での不払い家事労働者になってからの歴史的事実の反映であり(貴族やブルジョワなら、下女にはふさわしいが妻としては不適と考えたに違いない)、あらゆる性愛にまつわる前提は時代と地域によって異なるのだ。


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<皇族のミソジニー

オセアニアの創生神話などと同じく、偉大な王(日本ではむろん天皇)は外部からやってくる。群雄割拠の豪族の中からなぜその者が力を握ったのか、その権威の正当性は外部に担保されなければならないからだ。ちなみにこの王の婚姻は自分より下の階級(他の豪族)から妻をめとるわけで、女から見ると上昇婚にあたる。王の娘は自分より上の階級が存在しないため、同族の男と結婚するか、日本では、人間と結婚するには身分が高すぎるので神と結ばれる、という体のいい理由で伊勢によく放逐された。この斎宮制の成立が女系皇族の地位低下が始まる時期と重なっており、一八八九年の皇室改革によって決定的となった。江戸時代までは女帝も存在したが、この武家の継承規則に合わせる改革のあとは男系天皇が絶対である。二〇〇六年に悠仁親王が誕生した際、各紙で掲載された家系図には明らかに男女で扱いの差があった(たとえば大正天皇の母は明治天皇の側室にあたるが、側室の名はもちろん略されている)。また、日本の法律では日本人男性と外国人女性の子供に国籍は認めていたものの、一九八五年になるまでその逆(妻のみ日本人)は認めていなかった。このように皇室の家長制を強固に家族の手本としているようでは、ミソジニーからの脱却は遠いと著者は指摘する。


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<まとめ>

ホモソーシャルな集団は、ホモフォビアの裏返しであるミソジニーによって成り立つ。という図式を得ると、歴史的事件から、なぜ女好きの男は、その実女を見下しているのか。なぜ男はおとなしい女や、自分より能力の低い女を欲望するのか。などといった日常の現象まで理解しやすくなるだろう。今までの話を突き詰めていくと、「女」とは「男でないもの」に与えられた「徴つき」の名称であることが見えてくる。それは「たくましくない者」「つつましい者」「無力な者」、すなわち主体足らざる者の総称であり、男はその要素を自分から切り離すことでアイデンテティを守っているのである。そして、フェミニストとは、与えられた「女」の席に違和感を感じ、それを変革しようとする者のことである。


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<メモ>

戦時中の輪姦なんかもホモソーシャルの確認であるという指摘(やれなきゃ男じゃない
という圧力)、スーフリ事件にも言及がある

出征中の夫を待つ妻の貞操を監視化に置くのは、国防婦人会の隠れた使命であった

娼婦と正妻の区別、聖化は負債論で触れられていたなと。再読の機

素性の知れない女が美貌だけで勝負、階級を駆け上がるというのは近代のファンタジーで、身分社会ではありえない

嫉妬は男を奪った別の女に向かうが、男の嫉妬は自分を裏切った女に向かうことが多い。それは所有権の侵害、女がひとり所属することで保たれていた男の体面が壊されるからだ。恋愛は女にとっては男をめぐる競争のゲームだが、男にとっては自己のプライドとアイデンテティを賭けたゲームである。もともとラテン語では、ファミリアは妻子や家畜、奴隷などを意味する集合名詞であった。

援助交際の過程として、母を、ひいては女を下に見ている父への嫌悪は強い理由になりうる。父親世代の客を父の代理人に見立て、父に属していながらけして触れることのできない体を粗末に扱うことによって父に復讐するのだ。自傷を通じてしか復習できないのが絶対的弱者である娘の選択肢の狭さである。社会心理学者のエリクソンは、こういった機序を「否定的アイデンテティ形成」と呼び、娘たちの多くの父親が聖職者や教師などの抑圧的な親であったことも早くから指摘していた。母と同じようになりたくない、という母への蔑視も動機のもとになりうる。

援助交際が話題になった時分、インタビュアーの質問に応じて、ブランド品が買いたいから・お金が欲しいから、などと答えた女の子たちは「拝金主義」と言われたが、当時の取り上げかたよろしく、消費社会に毒された少女たちーーと、動機をそのまま信じるのは彼女たちの戦略にはまっている。「拝金主義」はその理由を共有する大人に提供されたわかりやすいスケープゴートであり、そう言えば大人が勝手に「わかって」くれるからだ、とする宮台真司が引用されている。


娼婦になる理由の例としてさらさら書かれているのが「自分に商品価値があるのなら、せめて高いうちに売って金を儲けたいと思う者、性なんてなんの意味もないということを自分の体で確かめたいと思う者、自分なんかつまらない存在だと卑下するあまり、男の役に立つことで自己を確認しようとする者…」などとあり、その例の短く的確なさまに驚いた

東電OL事件をこの本によって初めて知った。年収一千万を稼ぐ女総合職の黎明世代の女性が、なぜ夜の街で立ちんぼをして二千円〜五千円で体を売っていたのか。ある人にとっては明快な、ある人にとっては謎の事件であった。

上野千鶴子の仕事はどれも、セクシュアリティの歴史を紐解くところから始まる。歴史の中で位置付けるということはすなわち脱・自然化であり、なぜ歴史を学ぶのか?という問いに対してひとつの有効な答えではないかと思った。当たり前に見えがちなあらゆる物事、制度や慣習には始まりがあること、そして終わりが来るかも知れないということを、タイムマシンを借りて見学するわけだ。