読書録

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東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』要約

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

<そもそも観光とは?>
貴族の修身として行われていたヨーロッパ各地の旅を、民衆レベルで行ったものが観光のはじまりである。黎明期を語る上で欠かせないのがトマス・クックという実業家。ツアーの行き先では観光客の無教養、粗野が嘲笑の種になったが(今の中国人観光客を笑う図と重なる)、クックはむしろそれを目標にしていた。彼は観光を通じて大衆を啓蒙し、社会を良くできると考えた人物であった。

観光客の出現は、ベンヤミンが注目した遊歩者(パサージュと呼ばれる商店街建築をうろうろと見て回る人々)が現れたのと同時期であり、二者のふるまいはよく似ている。観光客にとっては訪問先の全ての物事が商品・展示物であり、無為なまなざしの対象となるわけだ。観光客は、旅行先で見るはずのなかったものを見、知り合うはずのなかった人々と対面するのである。


<現代思想おさらい>
シュミット、コジェーヴアーレントの三人は、十九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。答えはいっけん三者三様だが、彼らが人間と対比したものを考えると、共通の問題意識が浮かび上がってくる。

それはグローバリズムと共に現れた、"ジャンクフードと娯楽に囲まれ、政治も芸術も必要とせず、提供される新商品に快楽を委ねているだけの消費者は、生物学的に生きていようと「人間」ではない"、という認識である。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとした。

ここでグローバリズムと対置されるのが、ひとりの自分ではなく、より大きな概念(国家や共同体など)に精神的な拠り所を持ち、連帯すること、成熟することを求めるナショナリズムである。

著者はこの二項対立が相反するものではなく、現代の国家では両方が重なり二重構造になっていることを指摘する。そして観光客は、「個人から市民へ、国民へ、そして世界市民へ」という単線的な物語から外れている。それゆえに近代思想の枠組みでは原理的に政治の外部として扱われるが、著者はふわふわした存在であるところの観光客という概念を通してこそ、新たな政治の回路を見出せるのではないかと考えている。


<数理モデルの導入>

友達の友達の友達の…を六回続けると世界中の人間を網羅できるとは言うものの(これは数理モデルを用いて証明できるらしい)、感覚的には想像しづらいところがある。ここでは点を人と見たてて、ある人同士が友人である場合点と点の間に線分を引く、というやり方で図を描き、人間関係のモデル化してみる。

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a,b,cの図は全て点の数、線分の数が同じである。人間関係は基本的にはa図のように、友人の友人は自分の友人であるような"閉じた"コミュニティになるが、これでは多角形の反対側へ関係を伸ばすだけでも、友達の友達の…を5回使ってしまう。c図は、a図の線分を全てランダムに引き直したものだが、これも実際の人間関係を表せているとは言い難い。

b図はa図の線分の15パーセントをランダムに「つなぎ替え」たものである。基本的には"閉じた"コミュニティだが、いわば、そことそこが友人同士なのか!という驚きを少し含んだ図である。友達の友達の…で全世界を網羅するために必要なのはこの「つなぎ替え」であり、ランダムな・意外な・普通なら繋がるはずのなかった繋がりこそが人と人の連帯において重要な役割を果たしていることを指摘する。

「つなぎ替え」の生み出す近道が人々を近くの三角形から遠くの三角形へ連れ出し、他者との出会いに誘う。ところが、社会の複雑さがある臨界を超えると、この「つなぎ替え」の性質そのものが変質し、「優先的選択」と呼ばれるものに変わってしまう。ごく簡単に説明すると、富や権力が極端に集中した点が現れると、「つなぎ替え」はもはやランダムに発生せず、点と点を結ぶ線も方向性を帯びてしまうということである。


<マルチチュード>
ネグリとハート(『帝国』2003年刊)という思想家の提唱したマルチチュードという概念を用いて、個人ではなく、国家でもなく、かつてのマルクスのように階級でもない第三の概念へのアイデンティファイを試みる。(それは"家族"なのだが、一旦省略して先に進む)

マルチチュードの前に、書名にもなっている『帝国』についての説明が必要である。ネグリとハートは、国民国家は経済的・文化的な交換をもはや支配下に置けず、新しい秩序が発生している、村落や都市の延長として国民国家を考えることはできないとし、これを国民国家の体制から『帝国』の体制への移行だと指摘した。(前述の一極集中≒優先的選択の集合体でもある)そして、この体制への反作用として内部で生まれる『帝国』の秩序そのものへの抵抗運動を、彼らはマルチチュードと呼んだ。要は反体制運動や市民運動のことだが、かつての運動と異なり、グローバルに広がった資本主義を拒否せず、むしろ利用する(インターネットの情報収集や動員、企業やメディアとの連携など)。

このマルチチュードの概念はイデオロギーを失った冷戦後の抵抗運動に熱狂的に受け入れられた。実際にアラブの春やNYのウォール街占拠などの運動の様子をぴたりと言い当てており、マルチチュードの成功例とされている。

しかし著者は、これらの運動はどれも決定的な力を持たず、結果的にはロマンでしかなかったこと、そして、マルチチュードは生成の過程が説明されず、ただ反作用としてしか扱われないこと、また、その抵抗において、抵抗運動の意味内容は鑑みられないのに、抵抗運動は連帯していくーーつまり連帯も、連帯の理由も存在しないのに連帯することになっているーー無から連帯が生まれている、ことを指摘する(こういう思考回路を否定神学的と言う)。
ここで著者は19年前の著作である、『存在論的、郵便的』を引きながら、否定神学的な思考を更新する。


<郵便的>
神は存在しないが、存在しないという空白によって存在する。この否定神学的な思考を更新するのが、「郵便的」な捉え方である。これは、神はとりあえず存在しないが、現実の様々なエラーによって、あたかも存在しているかのような効果を及ぼす、というもの。このエラーを誤配と呼び、郵便になぞらえて表現している。

観光客は、誤配や前述の「つなぎ替え」に満ちた存在である。画集など一度も見たことのない人間がルーブルモナリザを見る、自分で料理も作ったことがない子供がパリの屠殺場を見学する。彼らが正しく見たものを理解するなどありえず、誤解に満ちてはいるが、まさにその「誤配」こそが新たな理解やコミュニケーションに繋がる、それが観光の魅力でもある。

人が誰かと連帯しようとする、それはうまくいかない。けれどもあとから振り返ると、何か連帯らしきものがあったような気がしてくる。そしてその錯覚が次の連帯の(失敗の)試みを促すーーこれが著者の考える観光客=郵便的マルチチュードによる連帯の姿である。


21世紀の新たな連帯は、「帝国」を外部から批判するでもなく、内部から脱構築するでもなく、いわば誤配を演じなおすことである。出会うはずのない人に出会い、考えるはずのないことを考え、「帝国」の体制に再び偶然を導き、集中した枝をもう一度つなぎ変え、優先的選択を誤配へ差し戻し…。こうした実績の集積によって、特定の頂点への富と権力の集中はいつでも転覆し再起動可能であること(数理モデルでは、富や権力の集中が必然的であると同時に、集中する頂点に必然性はなく代替可能であることを示す)を常に人々に思い起こさせる。あらゆる抵抗は誤配の再上演から始まるのであり、これを観光客の原理と名付ける。


<メモ>
東浩紀は個人でも国家でもない対象へのアイデンティファイを「家族」に見ている。ここで問題にしているのは、安易に血縁で括れる家族の確かさではなく、一度も会ったことのない親戚より飼っている犬を家族と見なすような、家族の不確かさ・不安定さである。親は子供を選べず、子も親を選べないというランダムさは郵便的である

・そういえば、「この世界の片隅に」は、子が死に、新たに出会ったどこの誰かも知らない子供を迎える物語だったなと カラマーゾフの最後で登場する犬の話も強烈に面白い(あの犬が元々飼っていた犬だったのかどうかは作中で明かされないし、それが重要ではないというのが本書の文脈である)

・めんどくて省いたもののナチズムの理論的根拠を担ったシュミットの思想は危険ながら鋭利で面白い

サイバーパンクは誤解から産まれている。マトリックス的な「本物のリアリティを持った、別の現実としてのサイバースペース」はテクノロジーに無知なSF作家の想像の産物であり、宇宙がSF的想像を掻き立てる夢のまた夢の世界でなくなりつつあった時代とも呼応して、いわばSF的なフェティシズムの矛先になった

・シンギュラリティに夢を見るのはその続きで、フェティシズムの受け皿を探してるだけなんじゃないかという指摘

・あらゆる思想は、この世界は最善である/どこか間違っている というどちらかの想定で振るえる部分がある 前者はカント ヘーゲルなど

・「不気味なもの」の想定は面白い フロイト曰く不気味さの本質は「親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な恐怖の対象に変わる(親族が幽霊に変わる、など)、その逆転のメカニズムにある」 人間か非人間かわからないもの、生物か無生物かわからないもの(要はシミュラークル)に囲まれるディックのSF的な設定は大きな示唆を含んでいる

・幽霊の概念を用いてテロや人の変貌を語るのは面白そうだと思った。幽霊はいないけどいるという世界のエラーそのものである